『子どもは遊びが仕事』!?教育改革で不安を感じるパパ・ママへ

 

皆さんご存じのように日本の教育改革が2020年から本格的に始まりますね。

ITとグローバル化が進むこれからの時代に向けて日本もようやく重い腰を上げてきたな~という感じです。

 

右肩上がりの経済が過ぎて早20数年。

それまで日本が良しとしていた価値観が崩れ始め、どうするべきか、どこへ向かうべきかと答えの出ない迷走していたかのような世の中でしたでしょうか。

個人の価値観が多様化し、少しずつ本質を捉えたものになりつつありますが、まだまだ右向け右の風潮がぬぐい切れない感があります・・( ̄  ̄) 

今子育て世代の20代~40代は少子化が加速し、バブルがはじけ就職氷河期、ゆとり教育の弊害をもろに受けた世代ですよね。(ちなみに私は40代(・_・;)

いつの時代も波乱万丈ではありますが、ここで世間の不安にのまれては自分も子供にも害となるだけ。

なんとなくこれからの子供をとりまく環境に不安を感じているパパ、ママ。

その不安を埋めようと「小さいうちから良質な教育を受けさせなくては!」と焦って幼児教材やら幼児教室を考えていたら…….ちょっと待ってください!

これを機にまず大人が『本当の学び』とは何か、考えてみませんか?

 

 

『学び』と聞いてイメージするもの

これ、おそらく多くの人が『学校の授業』をイメージしているかと思います。

一部の学校を除きほとんどの公立の学校は『教壇に立った先生が教科書や教材を基に話して黒板に書いてそれを生徒がノートに写す』という。

(一部都内の某公立学校では革新的な取り組みが行われているようですが・・・)

 

時々先生が生徒を指して質問する、答えさせる。という授業の形式が多いですよね。

私はよく指されたくなくて先生と目を合わせないようにしてたものです(~_~;)

間違えたら恥ずかしい、自分の意見はおかしいかもしれない・・・と私に限らず多くの子供が自分の意見を言うことに自信が持てなかったものです。

(大人社会でもその意識はありますよね)

人と違うことを悪とする、まではいかなくても、大多数の人が自分はより多くの人の価値観の中にいることで安心しているかのようです。

日本は島国ということもあり、とりわけ『人と違うことは恥ずかしい』の意識が強いんですよね。

まあ、横並びの日本人だからこそ戦後ここまで成長したんだろうなとも思うのですが・・・。

 

ただ、その『人と違うことが恥ずかしい』と思う原因は、主に学校での情報を入れるインプットばかりで出すアウトプットが極端に少ない。じゃないかなと。

そう、もはや『受け身』が普通になってしまっています。

そこは国としてもこれからの日本を考えると危機感を感じてきているようです(それが受け身ではない、主体的・能動的な教育改革ということだそうで。)

結構多くの大人たちが『学び』→『学校の授業』という、『受け身』の環境があたりまえになってしまっています。

 

本当の学びとは「それをしている自分が好き」な状態から生まれる

例えば料理が好きな人がいます。

きっとはじめはちょっとしたキッカケから。

大人になって必要に迫られて料理をするようになって料理好きになった人もいると思います。

初めは誰もが初心者。

親が料理好きで子どものころ色々教えてくれたというような恵まれた環境の人もいるでしょう。

そうでなくても、自分でレシピを見て試行錯誤しながらとりあえず作ってみると思うんです。

すると自分の中に味付けのパターン、食材ごとに適した調理方法など、基本となる「引き出し」がだんだん増えてきます。

やっているうちに自分の引き出しからあれこれ持ち出して『自分だけのオリジナルレシピ』が出来るようになっていきます。

それは毎回成功するわけではなくて、むしろ『ちょっと失敗』の方が多くて。

でもその『ちょっと失敗』のおかげで「じゃあ次はこうしてみよう」と別の方法を見いだせる踏み台になるんですね。そしてまた新たな引き出しが増えていってますます料理の幅が広がっていくという。

時にはなかなか上手に出来たりして、それが誰から「美味しいよ」と褒められようものなら、それをベースにアレンジしてみたり、あるもので代用できるようになったり、どんどん枝分かれしてレパートリーが増えていきますよね。

そうしてやっていると、ある日その食材そのものに興味がわいてくる。

それまではジャガイモならせいぜい大きさや見た目の違いだけだったものが、産地や種類、作る料理によって使い分け、保存方法、栄養価を損ねない料理の仕方から始まり、ひいては生産現場の苦労や野菜に影響を与える気象、更にそれが店頭に並ぶまでの物流、小売りの現場に至るまで・・・etc

たかだかジャガイモひとつであらゆる分野が繋がっていて多くの人が関わっているという、とっても奥が深いことに気が付く。

そしてそのジャガイモに対しての背景を知ると、知る前よりずっと広い視野で物事を見られるようになり、ますます料理が好きになる。愛おしくさえ感じるようになる。

(ちなみに私はマメではないこともあり料理は「好き」にはなりません・ ・ ・でしたが、作り手次第で一つの食材が大変身するという、料理の自由な性質は好きです^^)

そしてその『好き』は人生を豊かにしてくれるし、何よりも周りとこれから関わる人に何かしらいい影響を与えることに繋がる。

好きになったものはもっともっとどこまでも知りたくなるし、実践したくなる。

疑問や分からないことも喜んで調べたくなる。

そしてそれまでの経験と照らし合わせて疑問が解決したとき、頭ではなく体感的にわかる喜びを見出せると、それは死ぬまで続けたくなる。

そんな風にまず自らの楽しい体験が土台にあって、そこからもっと知りたい、見たい、わかりたいと能動的になることが『本当の学び』に繋がっていると思いませんか?

 

 

『子どもは遊びが仕事』ここに学びの本質がある

干渉されない自由な遊び

ここでいう『遊び』というのは幼児が大人に干渉されない『自由な時間』ということです。

時々公園だったり公共の子どもの遊び場だったりで、子どもの行動に逐一口を挟む大人が見られます。

子どもは目についた興味のあるおもちゃで遊ぼうというところに、

「こっちのおもちゃも面白そうだよ」とか、

子どもは自分なりの遊び方で遊びたいのに、

「これはこの穴からボールを入れるんじゃないかな?」とか・・・。

大人に指示されてばかりだと子ども自身の自由な発想がなくなってしまいます。

子どもって実は、

自分で自由に発想(想像・仮説)してやってみて(実行)、

どうなったか確認して(検証)、またやってみる(挑戦)

みたいなことを日ごろの遊びの中で実践しているんですよね。

そうした一連の行動を大人が見守ってくれる(最低限の安全が守られている)幼児期に沢山経験しないと、自立する年になって何かしら(進学や就職など)の壁にぶつかったとき、とても狭い思考しか持ち合わせていないのですぐに行き詰ってしまいます。

良くも悪くも色々なパターンを経験していないと、用意されたものから逸脱してしまった時応用が利かなくなってしまいます。

 

また、大人から見たら一見いたずらと思えるような行動も子どもの純粋な探求心からきていることもあります。

他者に迷惑をかけることでなければ、多少「危ないな・・」と思うことでもすぐにやめさせないで様子を見るという大人側の忍耐が必要な時もあります。

とはいえ毎回子どもの行為で家の中が汚れたり散らかされたりされたら大人はたまったものじゃないんですけどね・・・(;´Д`)

まぁそこは大人が余裕のある時だけでいいんです。

『子どもの探求心を見守る』ことを心がけるだけでも違うと思います。

 

幼児期は常に大人がそばにいるので小さいながらに大人の反応を気にしながら行動しがちですが、小学校3、4年生くらいから友達同士の仲間意識が強くなり、大人抜きの『子どもだけの世界』が作られてきます。

いわゆるギャングエイジといわれる時期ですね。

時には友達同士のその場の雰囲気でいたずらをしてしまったり、ルールを破ったり、人に迷惑をかけたりと、大人から見たら問題行動にも映りかねませんが、それも子どもの自立に向けた大事な時期です。

(そんな時こそ親ではない周りの大人が見守り注意してあげられる環境が『地域で子どもを育てる』ということだと思うんですけどね(-_-))

その大人が関与しない『子どもだけの世界』の時の『あそび』というのは、

実は『本当の学び』に繋がっているんです。

 

親がそばにいると危ない時などすぐにやめさせてしまいます。

子どもだけだと確かに危険なのですが、その危なかった経験や痛かった、怖かった経験をすることではじめて『ああ、これはほんとに危ないな』と体で感じることができます。そこで初めて危険を予測する能力が養われるのではないでしょうか。

今問題なのは大人も含めその危険や怖かった体験が少なくなることで、本当に危険な状況さえも察知できなくなるのではと危惧しています。

毎年のように繰り返される自然災害への対応にも通じることなんじゃないかと思います。

 

 

与えられたものから得られるものは少ない

子どもを対象にしたある自然活動にかかわっている人から聞いた話です。

子どもたちを自然の中にある野原など広い場所に行って自由に遊んでいいよとなると、「何して遊べばいいの?」と聞かれるようです。

子どもなんだから「わーい!」と喜んで駆けずり回りそうなもの。

それを「何をして遊べばいいんだろう・・・」と戸惑う子供たちが少なくないそうです。

おそらく「あそび」というものが「これで遊びなさい」と与えられたおもちゃだったり遊具のある公園だったりということが多くなると、ただっ広い草原に連れてこられて遊んでいいよと言われても「何もないじゃん」となってしまうのでしょうね。

何が言いたいかというと、本当の学びに繋がるものは想像力であり、今あるものでいかにして楽しむことができるかという柔軟な思考です。

遊具やボールなんかなくても、友達と追いかけっこをする、木登りをする、足元の草で草相撲をする、石を並べて絵を描いてみる、寝転がって雲を見て何の形に見えるか友達と当てっこをする・・・。

そんな遊びの中で知らず知らずのうちに身体能力が養われ、結果的に生物や科学に触れることにもなり、創造と感性が磨かれます。

 

「うちの子はサッカーで運動もしてるし、休みの日には子どもの遊び場に連れて行っているし、たまにはディズニーランドやレジャー施設に連れて行っているし」

・・・ということではないんですよね(;^_^A

サッカーなど習い事の場合、指導者からの働きかけの部分が多く、そこには「やってみて自分なりに工夫する」という部分は欠けてしまっているように思います。

けれど子ども自身がそれ以外の時間も自主的に練習しているほど夢中になっていればまた違います。

自分なりに試行錯誤して上手くなろうとしている姿は、その子どもの中で大きな学びとなります。

 

安全で清潔な子どもの遊び場もレジャー施設も、やはり用意された環境で『どうぞ楽しんでください』とどこか受け身のあそびになっているのではないでしょうか。

そこには不快も、危険もないけれど、どうすれば楽しくなるかという思考も生まれにくく、自ら湧き出るような感動も体験しにくいものです。

大切なのは『何をして遊んだか』というより、『どれだけ自由に遊んだか』ということ。

子どもがどのような環境で遊べるかどうかは、実は大人の考え方によって大きく左右されるかもしれません。

 

おもちゃの遊び方は子ども流でもいい

時々思うのですが、店頭の箱のない中古のおもちゃを「これはどうやって遊ぶものなんですか?」と質問される方がいらっしゃいます。

こちらとしては一般的にそうと思われる遊び方を説明するのですが・・・。

遊び方って特に決められた遊び方でなくてもいいと思うんです。

まあ、せっかく買うんだからより子どもが興味を示しそうな楽しいおもちゃを買いたいのはわかるんですけどね・・(^^;

ボールを通して遊ぶものでミニカーを入れてみてもいいと思うし、お砂場用のスコップやバケツをお風呂で遊ぶおもちゃにしてもいいと思います。

危険につながらなければ「このおもちゃはこうあそぶものだ」と決めてしまうのはなんだかもったいないですよね。

男の子の戦隊物のおもちゃなんかは大人でもどうなっているのか何度やってもさっぱりですが、子どもは ちゃちゃっと覚えちゃいます。

柔軟な思考で大人よりずっとオリジナルな遊びを見出す天才です。

大人がこのおもちゃはどんな遊び方をするんだろう?と悩む必要なんてありません。

むしろ大人が見てよくわからないものの方が子どもの想像力は刺激されて楽しいおもちゃになるものですから。

家の中にあるガラクタと思われるようなただの箱、瓶のフタ、棒切れなんかも想像力が掻き立てられる絶好のおもちゃになります。

消費税も上がって家計が苦しくておもちゃを買うのが惜しかったら家中のガラクタを集めてみてください。

小さい子どもでしたら出来上がった見栄えのいいおもちゃよりもずっといいです。

そんなガラクタの方がお家の人と遊べるずっと楽しいおもちゃになるはずですから。

 

遊ばせようとする期待は親も子供も楽しめない

最近はそれまでのレジャー施設とも違う、有料の子どもが安全に遊べて楽しい仕掛けや遊具がある屋内施設がいろいろあります。

確かに楽しそうで大人から見てもワクワクします。

でも安全のためあらゆるルールが設けられていますし、種類ごとに決められた遊びしかできません。(当然ボールプールの中でお絵かきはできません・・( ̄  ̄) )

時々はいいんですが、それはもう受け身の遊びになってしまいます。

自由な空間の中、

その時の気分や天気やお友達によって、何をして遊びたいか子ども自身が決める。

それがないと遊びから得られる楽しさも感動も半減してしまいませんかね。

 

与えられたおもちゃなどはすぐに飽きてしまったり、せっかく遠出しても子どもが乗り気じゃないと親も「せっかく遊びに来たのに・・・」と勝手な期待をかけてしまいます。

 

学習意欲の高い人は子どもの頃たくさん遊んだ?!

教育云々以前に大人が「自分はどうだったかな?」と考えてみてください。

将来の為と称して、お子さんの『今』しかない大事な子供時代をコントロールして(されて)いませんでしたか?

 

こどもちゃれんじで有名なベネッセでこんな興味深い記事を目にしました。

『小1からの学びにつながる幼児期の経験は?』

 

国が唱える『主体的・能動的な力の育成』というのはまず子ども時代の『あそび』が土台にあって、その上で学校の勉強があるものだと思います。

言ってみればその土台となる『子ども時代のあそび』を抜きにして主体的・能動的な力というものは決して身に付きません。

仮に高い学力で身に付いたと思われていたとしても、大人になり社会の荒波にもまれた時、その土台となる『あそびから学んだ経験』がものを言います。

 

先に感情を伴う『あそび』の経験があって、その後に得た知識というものは、自らで裏付けの取れた本物の知識になり得るはずです。

 

それが『本当の学び』ではないでしょうか。

 

by yosshi